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山本五十六がもし直率していたら

真珠湾攻撃とミッドウェー海戦は
太平洋戦争で非常に重要なポイントとなる海戦です。
真珠湾攻撃では、第三次攻撃をなぜしなかったか、石油タンクや工廠施設をなぜ破壊しなかったか、
ミッドウェー海戦では、なぜ陸用爆弾で空母攻撃に向かわなかったのか、
といった点が毎度問われることとなっています。

私が思うのは、どちらの作戦も
連合艦隊司令長官山本五十六の考えによる大変重要な作戦で、
もしこの作戦が認められなかったら連合艦隊司令長官の職を辞するとまで
山本五十六は言い切っていたわけですが、
もしそこまで言い切るならば、
山本本人が機動部隊を直率して
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦を行えばよかったじゃないかと思うのです。
連合艦隊司令部を戦艦大和から空母赤城に移し、
日露戦争以来長く構想してきた艦隊決戦の一環として、
戦いを挑んでもよかったのではないかと思うのです。

なんでもかんでも最高指揮官が直接指揮すればよいというわけにはいかず、
現場指揮官に任せなければならないのも組織でしょう。
また、当時の思想での主力はあくまで戦艦であり、
連合艦隊司令部としての設備も、たとえば無線などの通信設備も戦艦の方が整っており、
アンテナの高さも低くて通信設備が弱かった空母では
連合艦隊司令部に不向きであるという意見もあるかもしれません。
けれども、山本五十六は航空機が主力になると理解しており、
真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も空母による戦いが大変重要になると理解していたわけで、
一時的にでも連合艦隊司令部を赤城に移し、山本五十六が直接空母部隊を率いて
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦に向き合っていたら、
海戦の結果は変わっていたのではないかとも思うのです。

機動部隊の司令長官は南雲忠一でしたが、
なぜ水雷出身の南雲を指揮官にしたのか、
たとえば航空に理解の深かった山口多聞が指揮官だったら、
といろいろな考え方が出ていますが、
私がおもうのは、真珠湾攻撃にせよミッドウェー海戦にせよ、
日本の運命を決する非常に重大な海戦となることは一目瞭然であったわけで、
「艦隊決戦」の一つとして、
連合艦隊司令部を赤城に置いて、最高指揮官である山本五十六自らが行って
海戦を山本自身が思うように指揮すればもっと違う結果になったのではないかと思うし、
それが本来の姿ではないかとも思うのです。

山本は1943年3月の「い号作戦」においては
ラバウルに進出し、作戦を直接指揮しています。
そして前線部隊を激励するため、前線に進出して、
アメリカ戦闘機隊の待ち伏せに遭い戦死しますが、
もし前に出るのだったら、このような時ではなく、
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦のときに前に出ているべきだったと思います。
そして日本海軍艦隊の最高提督として、思う存分戦うべきだったと思うのです。

山本五十六は1943年4月にブーゲンビル島上空で戦死し、
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦で空母部隊を指揮した南雲忠一は、
1944年7月、サイパン島にて自決します。
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ドーリットル爆撃と山本五十六の戦死

今日4月18日はドーリットル爆撃の日であり、山本五十六が戦死した日でもあります。
1942年4月18日、ドーリットル爆撃が行われ、
ちょうど1年後の1943年4月18日、山本五十六は戦死しました。

開戦してから5か月、アメリカは日本本土初空襲に成功します。ドーリットル爆撃です。
B-25爆撃機16機による爆撃の被害は僅少ではありましたが、
日本に与えた心理的影響は大変に大きく、
日本をぎゃふんと言わせようとしたアメリカの作戦は大成功することになります。
この空襲により、日本海軍は日本本土防衛の甘さを思い知らされ、
山本五十六はミッドウェー攻略を推し進めることになります。
ミッドウェーを占領することにより、防衛線を押し上げ、
再度の日本本土空襲を阻止するという戦略です。

しかし、ミッドウェー海戦は山本五十六が心を砕いた作戦ではありましたが、
空母4隻を失うという大敗を喫し、以後、日本軍は劣勢に立たされることになります。
そしてガダルカナル島の大消耗戦に引き込まれ、
数多くの兵士と兵器を消耗し、日本軍は撤退していくことになります。

そんな日本軍の劣勢を挽回するため、
ラバウルを中心としてアメリカの根拠地を航空攻撃するという「い号作戦」が計画され、
この作戦を指揮するため、山本五十六はラバウルに進出します。
そして前線将兵を見舞うためさらに前線であるブイン、バラレに行こうとし、
アメリカ軍戦闘機の待ち伏せに遭い、戦死することとなります。

太平洋戦争は山本五十六の影響が大変大きいところで、
戦争前半は山本の戦略によって動いていきました。
真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も山本の発案ではありましたが、
あと一歩のところで及ばず、ミッドウェーでは敗北することになりました。
そして山本五十六が戦死したことは、
日本海軍にとって致命的な打撃のひとつであり、
以後、日本は敗戦へとひた走っていくことになります。

そんな日本の重要なポイントとなったドーリットル爆撃と山本五十六戦死が
同じ日であったというのは運命を感じます。
今日の関東は快晴で、春うららかというとても良い日となっています。
そんな春うららかな日、日本本土が突如空襲され、
その翌年には山本が戦死することになります。

山本の死後、2年経って、沖縄上陸が行われ、大和が水上特攻し、
山本が司令長官を務めていた連合艦隊は壊滅します。

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山本五十六の戦死

1943年4月18日、山本五十六が戦死しました。
明日が山本五十六の命日ということになります。
4月、桜の散り行く季節、山本五十六もまた南溟の空に散りました。

山本はい号作戦の指揮のため、連合艦隊旗艦であった武蔵を離れて、
ラバウルに来ました。
そして、前線将兵の労をねぎらうためということで、
ラバウルからさらに前線のブイン、バラレを訪問することになりました。
山本の行動は詳細に無線で連絡され、
その無線の暗号を解読したアメリカ軍は、
山本が前線に出てくるということをつかみました。
そして山本を暗殺するため、戦闘機隊を派遣します。
暗号の予定通りに来た山本の乗機をアメリカ軍戦闘機隊は撃墜、
山本は戦死しました。

日本軍は山本が暗殺されるということをまったく考えていなかったと思われます。
詳細な行動予定を無線で知らせ、
山本が乗った飛行機が飛んでいる様子を
一般の兵士たちも「あそこに山本五十六が乗っている」と
指さしたといいます。
前線部隊を訪問して士気を高めようとしたことは認めるにしても、
最高指揮官が敵に襲われて戦死する可能性を考え、
隠密に行動する慎重さが必要だったと思います。
ドイツの将軍ロンメルもまた前線に現れて部下たちを励まし士気を鼓舞したと言いますが、
ロンメルは詳細な行動予定を連絡することはなく、ロンメルの判断で行動していました。
山本独自の判断で、当日に行動を決定して前線に出るような
そのような突飛なくらいが安全だったと思いますが、
自分たちの暗号が解読されて待ち伏せされているとも知らず、
詳細な行動の予定通り前線に出撃し、撃墜されます。

アメリカ軍太平洋艦隊司令長官のニミッツは、
山本を暗殺することでさらに優秀な指揮官が現れることを恐れましたが、
日本にそのような人材はいないという進言を受けて、
山本暗殺を決意します。
実際、山本に取って代わる指揮官は日本に現れることはなく、
そのまま日本は敗戦に向けた坂を転がり落ちていくことになります。

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原爆の攻撃目標

アメリカは「マンハッタン計画」の暗号名で原爆開発を進めていましたが、
1945年7月16日についに世界初の核実験に成功し、
アメリカはさっそく日本への原爆使用に向けて動き出します。

原爆の攻撃目標については、すでに以下の4都市に絞られていました。
①小倉
②広島
③新潟
④京都

ここで京都について、スチムソン陸軍長官が反対しました。
スチムソンが反対した理由は、
京都が歴史的に由緒ある都市で、日本人の心の故郷である、ということでした。
スチムソンはフィリピン総督時代に京都を訪れたことがあり、その古代文化に
ひどく心を打たれたことがあったと言われています。

そんなスチムソンの強い反対があって京都は退けられ、
代わりに『長崎』が選定されました。

8月6日、B-29の気象偵察機は広島、小倉、長崎を偵察し、
広島が晴れていて攻撃目標にふさわしいことを確認し、
一番最初の攻撃目標は『広島』となりました。

京都はスチムソンの判断により攻撃目標から外されましたが、
日本を旅行した経験があり、日本文化を理解していたことにより、このような判断がなされたということで、
他国の文化を理解することは大事なことだと思います。
そういった相手の文化や歴史を理解することが、戦争回避にもつながるものと思いますが、
巨大なうねりの中で、何もできずに飲み込まれていく戦争の渦の強さを感じます。

広島には広島の歴史が、長崎には長崎の歴史があるわけですが、
無情にも原爆は投下され、終戦の聖断につながります。

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日ソ中立条約

1941年4月13日、モスクワで日ソ中立条約が調印されました。
太平洋戦争が開始される8か月前のことです。
今までソ連を攻撃する北進論という考え方が陸軍の中でありましたが、
ソ連と中立条約を結ぶことで、
南進論(東南アジア方面に進出する)にシフトしていくことになります。

日ソ中立条約については、このブログの2月16日付けの記事でも書いていますが、
太平洋戦争に突入し、同盟国のドイツはアメリカに参戦し、ソ連と戦っているのに、
日本はソ連と中立関係を維持するということで、
外交関係とはいい加減なものだと思います。
さらにドイツがソ連に侵攻した時、
中立条約がありながら、
日本はソ連国境に兵力を集めて演習を行ったり(侵攻するかもしれない圧力がかかっているわけです)、
国際信義は事実上なかった時代だったことをあらためて感じます。

桜舞い散る季節の4月中旬、そんな日ソ中立条約は締結されました。
それで北方方面の情勢を整理した日本は、
その年の12月、太平洋戦争を起こし、南へと侵攻していくことになります。

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ドーリットル爆撃

1942年4月18日、ドーリットル爆撃が行われ、
東京をはじめとする日本の都市が初めて爆撃されました。

空母発進をまったく前提としていない陸軍のB-25爆撃機が採用され、
極秘に空母発艦訓練を繰り返し、
準備が進められました。
そして4月18日、空母ホーネットよりドーリットル中佐率いる爆撃隊は出撃し、
日本の諸都市を爆撃しました。

真珠湾攻撃以来、日本軍にいいようにやられていたアメリカは、
何か日本に仕返しはできないかと模索していました。
そんな中で、東京をB-25の空母発艦により奇襲爆撃するという作戦が出されました。
実際の軍事的な被害は小さかったものの、
日本側に与えたショックは極めて大きく、
アメリカの作戦の戦略意図は大成功に終わった作戦でした。

その大胆な発想に驚かされます。
一度空母から発艦すれば戻ることはない作戦で、
中国の領地に不時着して助かるという作戦でしたが、
決死の作戦でした。
陸軍の双発爆撃機が空母から飛び立つという前代未聞の作戦でしたが、
空母発艦は成功し、爆撃も成功に終わりました。
やられっぱなしではないアメリカ軍の底意地のようなものを感じます。
日本の出鼻をくじくという心理効果だけを狙った戦略的な作戦でしたが、
戦略的な作戦が重要なのだとあらためて思います。

このドーリットル爆撃を防衛できなかった日本は、
日本の防衛線を確固たるものにするため、ミッドウェー作戦に乗り出します。
そして、あの手痛い敗戦を味わうことになります。

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ルーズベルト大統領が死去した日

今日はルーズベルトアメリカ大統領が死去した日です。
1945年4月12日、ルーズベルトは死去しました。
後任として、トルーマン副大統領が大統領になりました。

真珠湾攻撃や開戦時の対応については、
日本をわざと攻撃させるだまし討ちではなかったかとよく言われます。
真相はわかりませんが、
事前に日本軍の動向を察知しておいて、
真珠湾やフィリピン方面に何も連絡せず防衛体制をとらなかったことは
ルーズベルトの手落ちであったと思います。
開戦までの対応は後手後手であったものの、
開戦後の対応については、頭がよく鋭い対応をしてきたと思います。
ドイツと日本という二正面作戦でありながら、
日本方面の戦いにおいては、上手に日本を封じ込めていきましたが、
物量に勝るだけでなく、
戦略面でもすぐれたものがあったと思います。

そんなルーズベルトも病魔には勝てず、
勝利の日を見ることはなく、
今日、脳卒中で死去しました。
第二次世界大戦が終わる目前での死でした。

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大和の沈没

少し過ぎましたが、4月7日は戦艦「大和」が沈没した日です。
4月1日にアメリカ軍の沖縄上陸が開始され、
それから1週間して、大和に沖縄に上陸したアメリカ軍の撃滅が命じられ、
駆逐艦の護衛を連れて全10隻で沖縄に向かい、
鹿児島から離れて沖縄に向かおうとしたところ、
鹿児島県西南の坊ノ岬沖で、アメリカ軍艦載機の攻撃を受け、沈没しました。

水上特攻と言われ、
「沖縄に乗り上げて置き砲台として戦う」
などと決意は語られましたが、
当初の予想通り、熾烈な航空攻撃を受けて、沖縄にたどり着く前に沈みました。

私が初めて製作したプラモデルは大和でした。
もっとも有名な艦船であり、
小学4年生くらいだったと思いますが、
箱絵の大和を見て、美しいと思ったものでした。
それは純然たる兵器ではあったのですが。

量より質と言われますが、
あまりにも高価すぎて出し渋りというか使いどころを見いだせず、
最後の最後まで温存されて沖縄で沈むことになりました。
武蔵とあわせて、使いどころが難しい艦船だったと思います。

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ノモンハン事件の教訓

今日は「日本軍事史」(吉川弘文館)から、
ノモンハン事件の部分を読んでいました。
満州国とモンゴルとの国境において日本とソ連が戦ったこの戦いで、
日本はソ連の機甲部隊に敗北を喫し、
陸軍は自軍の後進性を痛感したはずなのですが、
その後進性は改められることなく、
太平洋戦争に突入していきました。

太平洋戦争に至るまで、日本は中国と戦争していたわけですが、
日中戦争の中で日本は兵器を近代化する余裕がなく、
ノモンハン戦争の教訓から戦車部隊の現代化を図りたくても
図れなかったという事情もありました。
アメリカとの対立が決定的になったときに、
日本陸軍は中国からの撤兵という条件を受け入れることはできませんでした。
長い日中戦争で膨大な人間と資源を消耗して、
獲得したものを手放し、いまさら最初に戻るということはできなかったのです。

ノモンハン事件で優勢な形で勝利をしたソ連は、東の守りを固めたうえで、
ドイツのポーランド侵攻にあわせて、ドイツとの密約通り、
ポーランド東部に侵攻しました。
政戦略という点では、ソ連の手腕はしたたかだったと思います。

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戦艦陸奥の沈没

戦艦陸奥は長門の同型艦で、
大和と武蔵が登場するまでは、
日本海軍で最新鋭の戦艦でした。
そんな陸奥が太平洋戦争中、瀬戸内海において
突如大爆発を起こして沈没してしまいます。

アメリカ軍の攻撃を受けたわけではなく、
完全な事故による爆発で、
いろいろな説がとりただされました。
最終的に結局何が原因なのかはわからずじまいですが、
乗組員による放火などさまざまな説が憶測されています。

私は吉村昭の小説「陸奥爆沈」で
陸奥の沈没のことを知り、
アメリカ軍の攻撃ではない、
自軍内のミスによって沈没したという事実に衝撃を受けました。
こともあろうに乗組員の放火によって沈没するなんて
そんなことがあっていいのかと
驚いたのです。

戦艦陸奥は戦機にめぐまれず、
太平洋戦争中にアメリカ軍と交戦することはなく、
1943年6月8日、瀬戸内海にて沈没します。

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インパール作戦

1944年3月8日、インパール作戦が開始されました。
3月のこの時期、ビルマとインドの国境地帯のインパールで
日本軍は侵攻を開始しました。

1944年の日本の敗勢が色濃い時期に
なぜこのような侵攻作戦が開始されたかといえば、
牟田口廉也司令官の度重なる実施要請があったという他に
チャンドラボース率いるインド国民軍がインド解放のための活動を希望しており、
東条英機としては、チャンドラボースへの支援を考えざるをえず、
何らかの形でインドへ侵攻することを考えざるをえなかったという背景があります。

インパール作戦は補給が続かないと分析されていました。
作戦を継続することは補給が続かないから無理であると。
しかし、牟田口司令官の強力な決意のもとに実行されることになります。

実際の作戦過程はやはり補給が続かず、
多くの餓死者を出して日本軍は撤退、作戦は失敗に終わります。

3月のこの時期、日本軍はちょうど最初に持っていた物資が乏しくなりかけてきた頃だろうかと思います。
戦いが始まってすぐに補給が尽き、ボロボロになったところで負け、撤退という姿は
悲劇としか言いようがありません。
インパールの悲劇はこのような季節に始まったのかと思うと感慨深いです。

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トラウトマン工作

1937年7月7日の盧溝橋事件を皮切りに日中戦争がはじまったとき、
ドイツは積極的にこの戦争を仲介しようとしました。
この仲介工作は駐中国ドイツ大使トラウトマンの名前をとって
トラウトマン工作と呼ばれています。
前年1936年に日独防共協定を結んでいたドイツは、
日中戦争の継続は日本の国力を弱らせ、ソ連を利するのみと考え、
この戦争の仲介に乗り出したわけです。

当初日本が出した和平案は穏便なもので、
和平は進むかに見えましたが、
日本は南京を占領する(1937年12月)など、数々の戦勝を挙げたことで
賠償金の請求など苛酷な条件を追加で上乗せし、
中国側は呑めないということで、
この和平は流れてしまいます。

数々行われた日中戦争の和平工作の中でも、
このトラウトマン工作がもっとも実現性が高かったといわれています。
日本が戦勝におごって条件の追加などせず、当初の和平案で進めていれば、
日中戦争は停戦でまとまった可能性があり、
後に続く太平洋戦争も避けられた可能性があったと思うと、
歴史の分岐点はいくつかあったのだろうと考えさせられます。
戦争は終わらせることを念頭に、
どこで終わらせるかをよくよく考えて進めていかないと
泥沼に陥るということを感じます。

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日米了解案

太平洋戦争が起こるまでの経過の中で、
「日米了解案」
というのが出てきます。
太平洋戦争は避けられたのかという問題の中で、
この案が出た時が太平洋戦争回避に
もっとも近づいた最後の瞬間だったと思います。

日本が太平洋戦争を開戦した最大の理由は
石油をはじめとする資源をいかに得るかということですが、
日本の北部仏印進駐、日独伊三国同盟締結などにアメリカは猛反発し、
くず鉄、鋼鉄などの日本への輸出禁止令を出し、日米関係は悪化の一途をたどっていました。
そのとき、民間ルートで「日米了解案」がまとめられ、
1941年4月16日、野村吉三郎駐米大使からアメリカ側に正式に提案されました。
太平洋戦争開戦のおよそ8か月前のことです。

この了解案(あくまで案ですが)では、日本が武力南進しないことを条件に
日本が必要とする資源の獲得に対してアメリカはこれを支持し協力するという条文案がありました。
日本がもっとも求めていたのは資源であり、
安定した資源の供給がテーマであったので、
日本側にとっては重要な条件でした。
アメリカ側はこの了解案を正式に交渉の俎上に載せるために、
平和的な手段によらない太平洋の現状不変更などの
四つの原則を条件として出しましたが、野村大使はこのことを日本政府に伝えることはなく、
松岡洋右外相によりさらに強硬な修正案が出され、
この日米了解案は流れてしまうことになります。

双方の譲歩があってはじめて交渉は成立すると思いますが、
このときに日本はアメリカ側が提示した四つの原則の承認など、
もっと踏み込んだ譲歩をしてもよかったのではないかと思います。
日米交渉はアメリカ側の時間稼ぎだったという見方もありますが、
戦争を回避するためには、日本側の譲歩が必要だったと思います。
そのような姿勢を示すことで、交渉の流れは変わったかもしれません。

太平洋戦争は不可避だったという見方については、
流れにはいくつかの分岐点があり、
太平洋戦争の回避は可能であったと思います。

日本はアメリカに対し、根拠のない自信が深く、
さらにドイツがヨーロッパで大勝したことにより、
ドイツと同盟を組む日本は、自信をさらに深め、
譲歩する姿勢を見せることなく、
それは戦争へとつながっていくことになりました。

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日本軍機の防弾性能

零戦は長大な航続距離や運動性と引き換えに
防御力がほとんどなく、米英の戦闘機にやられて
次第に劣勢となっていったことは史実のとおりですが、
他の日本軍機も似たような状況であり、
一式陸攻はワンショットライター(少し撃てばすぐ火が付く)とあだ名されたり、
おおむね防御力を犠牲にした状況でした。
これに対して、アメリカ軍戦闘機は防御力を重視し、
パイロットの命を守る方向に出て、
日本軍は優秀なパイロットが脱落していくのに対して、
アメリカ軍はパイロットが残り、強化されていきます。

それで、ではたとえば日本軍機が防御力を重視した戦闘機を作れたかというと、
資源が少ない日本では、防御力を強化するほどの金属を充てられず、
やはり無理だったのだろうと考えます。
零戦は非常に軽量化された、逆に言えば省資源で作ることができた戦闘機でした。
防御力を強化するためにはもちろん機体の使用金属も増加するでしょうし、
ただでさえ生産機数が少なかった日本には、やはり無理だったのだろうと思います。

防御力を強化して重くなった機体を牽引するには、大出力のエンジンが必要になりますが、
そのようなエンジンも開発できてはいませんでした。
日本軍機は航続距離に優れ、防御力で重くなった米軍機よりも長くは飛ぶことができましたが、
優秀なパイロットが多くいた戦争初期は長大な航続距離で活躍しても、
技量の少ないパイロットが増えてきた戦争後期では、その航続力を活かすことができなくなります。

アメリカ軍は燃料タンクにゴムで防弾の加工を施すなど、
防弾性能の向上に熱心でしたが、
日本軍は「攻撃が最大の防御」と、防御対策には不熱心でした。
精神力を重視した姿勢、命を守ることを軽視した姿勢の背景には、
資源が限られていたこと、国力の限界があったことも、大きな要因だったのだろうと思います。

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零戦撃墜王坂井三郎

零戦の有名パイロットに坂井三郎(さかい・さぶろう)がいます。
撃墜王として有名で、「大空のサムライ」など著書も多く出されていて、
その著書をおもしろく読みました。

坂井三郎は太平洋戦争初期に多くのアメリカ軍機を撃墜して
名パイロットとして名をはせますが、
ガダルカナルの初日の戦いで負傷します。
後部銃座があるドーンドレス急降下爆撃機を銃座がない戦闘機だと勘違いして、
後ろから敵機に迫ったところ、
後部銃座がしっかりと坂井機を狙っていて、その後部銃座に撃たれて負傷、
戦線を離脱します。

撃墜王の坂井三郎がどのような撃墜のされ方をしたのかというときに、
敵の戦闘機ではなく実は急降下爆撃機だったということに運命を感じますし、
そんな坂井でも疲労させて重大な勘違いを起こさせた
ラバウルからガダルカナル上空への長大な距離を思うのです。
この長大な距離は日本軍を悩まし、
ガダルカナルも敗退へと導いていきます。

坂井は頭と眼に重大な負傷を負いましたが、
たぐいまれなる精神力で帰りの飛行機を操縦し、
ラバウルに帰り着きます。
そして日本本土に送還されます。

坂井三郎は昼の星を見ることができたといいますが、
優秀な人材がその優秀さを戦争に活躍させねばならなかったという点に
悲劇を感じます。

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二・二六事件

2月26日といえば、二・二六事件が起こった日です。
今日の関東圏は雨が降っています。
雪ではないですが、寒く、
こんな日にあの事件が起こったのかと思うと感慨深いです。
二・二六事件が起こった日は雪が積もっており、
東京は白く雪におおわれていました。

二・二六事件は事件を起こした将校たちの気持ちとはうらはらに、
周りの反応は厳しいものでした。
海軍はこの事件を陸軍の反乱と判断し、
海軍陸戦隊を軍艦とともに東京湾に送り、
万が一天皇に何かあったときは天皇を救出する段取りを考えていました。
天皇は親しい臣下たちが襲われ、殺害されたことに怒り、
即時鎮圧を厳命します。
天皇親政を考えていた事件将校たちの考えとは
まったく正反対なことになりました。

二・二六事件は陸軍の一部将校が起こしたクーデター事件ということになりますが、
陸軍の軍隊統制の緩みがこういったところにも感じられます。
軍隊統制の緩み・甘さは関東軍の独走を招いたところでもあり、
太平洋戦争にもつながっていったと思います。
軍隊をきちんと制御する仕組みがなかったことは
とても悔やまれる点だと思います。

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日独伊三国軍事同盟の条約を読む

昨日、日独伊三国軍事同盟の条約原文を読んでいました。
改めて読み、日独伊三国軍事同盟ってすごいことが書いてあるなあと思いました。
筆者現代語訳にて書いてみると、

第1条
日本はドイツ及びイタリアの欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する。
第2条
ドイツおよびイタリアは、日本の大東亜における新秩序建設に関し、指導的地位を認め、かつこれを尊重する。
第3条
日本、ドイツ及びイタリアは、前記の方針に基づく努力につき、相互に協力するべきことを約束する。さらに三締結国中、いずれか一国が、現に欧州戦争または日中戦争に参加していない一国により攻撃されたときは、三国はあらゆる政治的、経済的、軍事的方法により相互に援助することを約束する。

「新秩序建設に関し、指導的地位を認める」というくだりがすごいなあと思います。
これが正式な国家間の条約として成立しているわけですから、これを読んだ周囲の国々はさぞかし気分を害したことだろうと思います。現に、この条約成立により、日本の対米英関係はさらに悪化していくことになります。
軍事同盟として考えれば第3条だけでもいいかもしれませんが、
第1条と第2条が堂々と載っているあたりは、
時代だったのでしょうか。
日本が作ろうとした「新秩序」は単なる日本の資源争奪に終わり、
指導的地位も単なる大威張りで終わってしまったのは歴史のとおりです。

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ガダルカナル島からの撤退

1943年2月1日から行われたガダルカナル島撤退は2月8日に完了し、
およそ半年間にわたって行われたガダルカナル攻防戦は終わりました。

ガダルカナル島の戦いというととても長く戦っていたかのような印象がありますが、
1942年8月のアメリカ軍上陸から始まって翌1943年2月に撤退ですから、
約半年ということになります。
たった半年ですが、日本軍にとっては泥沼の戦いとなりました。

日本軍がガダルカナル島に進撃した理由として、
日本軍の南太平洋・ニューギニアの前進根拠地ラバウルを守り、
オーストラリアとアメリカの連絡路を遮断するため、
フィジー・サモア方面に進出しようとしており、
その足掛かりにしたいという戦略がありました。
このあたりの島々で飛行場を造成できるような平坦な土地があるのは
ガダルカナル島だけということで、
日本軍が最初に目をつけ、島に上陸し、飛行場の建設を始めました。

ガダルカナル島で敗戦した理由として
ラバウルから遠すぎたということはあると思います。
ラバウルからちょうど零戦隊が届く距離ということで、
絶妙なベストな距離と考えたのかもしれませんが、
もっと近いところに前進基地を作ることができていれば、
ラバウルからの航空隊も存分に活躍することができ、
ガダルカナル島のような手痛い敗戦は避けられたかもしれません。

しかし、日本軍の土木建築能力は低く、
複雑な地形のところに滑走路を造ることはできませんでした。
ガダルカナル島の戦いが始まってから、
ラバウル~ガダルカナル間の島々に
航空基地を作って戦いを援護しようとしましたが、
十分な基地は作られることはありませんでした。
アメリカ軍は土木技術も発達していて、十分な土木機械があり、
日本軍では作れないような地形に飛行場を作り、
戦いを援護し、日本軍を翻弄しました。

根拠地からの長大な距離は、
必要な補給物資を運ぶことができず、
空海軍の援護も十分にできず、
大きな損害を出して、撤退へとつながっていきます。

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アメリカ軍硫黄島上陸

今日、2月19日はアメリカ軍が硫黄島に上陸した日です。
およそ1ヶ月に渡って激しい戦闘が繰り広げられました。
日本軍の戦死者または行方不明者は20,129名、アメリカ軍の戦死者は6,821名、戦傷者は21,865名でした。
両軍で3万人近い兵士が死亡しているわけですが、
小さな都市が一つ消えるくらいの人数だと思います。
日本軍の守備兵力は20,933名で、ほぼ全員が戦死したことになります。
激しい戦いでした。

アメリカ軍は日本本土爆撃にあたり、中間地点にあって邪魔であった硫黄島を占領し、
自らの中継基地にしようと欲し、この島の占領を計画しました。
硫黄島が占領されたことで、アメリカ軍の本土爆撃はスムーズになり、
日本の敗戦は加速していくことになります。

日本軍は本土防衛の時間稼ぎとして、救援は計画されず、全滅前提で防衛が計画されました。
最終的に戦争を勝利にもっていくにはどうすればよいかというビジョンは
このときの日本軍にはありませんでした。
戦争を勝利にもっていくことができないとすれば、
どう戦争を終わらせるか、
もっともよりよい条件で敗戦するにはどうすればよいかが検討されるべきですが、
大きな動きになるには至らず、
果てしない消耗を強いられて終戦の日を迎えることとなります。

硫黄島守備隊の兵士たちは本当にがんばったと思います。
ものすごい努力です。
その努力を活かすことができたのか、
課題は大きく残ります。

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日ソ中立条約をめぐって

太平洋戦争中、日本はソ連とは中立条約を締結し、
北に対しては中立ということで背後の安全を確保し、
米英と戦争をしました。
ソ連もドイツと戦争をしていたため、日本との中立条約は有益でした。
日本は日独伊三国軍事同盟があり、
ソ連も米英中との連合があったわけであるが、
日本とソ連との間だけは中立という、
なんとも外交とはご都合主義で皮肉なものだと思います。

日ソが中立条約を結んだのは1941年4月ですが、
それから2か月後の6月、ドイツ軍はソ連に侵攻します。
このとき、日本は満州とソ連の国境に大軍を終結させ、演習を行います。
関東軍特種演習と名付けられたその大演習は、
あくまで「演習」ということではありましたが、
日本陸軍内では、ドイツが優勢に推移するのであれば
ソ連に侵攻しようという考えもありました。
日ソ中立条約を結んだばかりだというのに、
もうそれを破棄してソ連に侵攻しようという意見が出ていたのも事実でした。

1941年6月から始まったドイツの侵攻はすばやく、
冬にはモスクワの直前まで迫り、モスクワ陥落の危機が迫ります。
シベリアにはソ連の別の軍団がいましたが、
日本が満州国境に大軍を集結させているために簡単には動かせません。
ここでソ連は焦ります。
ソ連はゾルゲなどのスパイを活用し、本当に日本がソ連に攻めてくる気があるのかを調べました。
そして、日本は結局はソ連に侵攻する気はないということをつかみ、
シベリアに配置していた軍団をヨーロッパ方面に送り、モスクワに迫っていたドイツ軍を撃破し、
ドイツ軍を押し返します。そんな1941年12月8日、太平洋戦争が勃発し、
ソ連のシベリア方面の危機はいったんは収束します。

太平洋戦争中はお互い中立で動きはなかった日ソ関係ですが、
1945年8月に入ってソ連はこの中立条約を破って
日本に宣戦布告、満州、南樺太、千島列島へと侵攻します。
確かに中立条約を先に現実にやぶったのはソ連ですが、
日本もドイツ侵攻にあわせて国境に大軍を集めてソ連をうかがったり、
「どっちもどっち」な話ではないかと思います。
こういった歴史を知ると、外交とはいい加減なものであると思うと同時に、
やはりうつろいやすい国際関係では困るわけで、
そんな簡単には壊れない強固な国際関係の必要性を感じます。

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今日は北方領土の日

2月7日は北方領土の日です。
今朝の新聞を見て、
今日が北方領土の日であることを思い出しました。

太平洋戦争終戦に近い1945年8月8日、ソ連が日本に参戦し、
満州、南樺太、そして千島列島に侵攻しました。
8月15日が過ぎてもソ連軍は進撃を続け、
北方領土までを全部占領したところで進撃は終わりました。

なぜソ連が北方領土を占領したか、8月15日を過ぎても停戦せず侵攻ができたかといえば、
1945年2月のヤルタ会談で、
ソ連の対日参戦の見返りとして千島列島をソ連に渡すという秘密協定があり、
なので、アメリカもその他連合国側もソ連が千島列島を全部占領しても
異議申し立てをしなかったということになります。
そんな連合国側の秘密の取り決めのうちに、
千島列島は占領され、北方領土問題が生まれたことになります。

戦争がもう少し早く終わっていたら北方領土問題はどうなっただろうか、と考えます。
もし、ソ連の対日参戦が始まるより前に戦争が終わっていたら、
ソ連は北方領土を占領する機会を失い、
もしかしたら北方領土問題はなかったかもしれません。
逆に、戦争が終わらずにずっと継続していれば、
ソ連によって北海道の北半分も占領されて(そのような作戦計画が実際にソ連にあった)、
北海道は分断されたかもしれません。
戦争終結の決断とは本当に難しいものであると改めて思います。

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メナド空挺降下作戦

1942年1月11日、オランダ領セレベス島のメナドに
日本海軍の空挺部隊が落下傘降下しました。
狙いは飛行場の奪取で、
作戦は成功し、大きな損害もなく飛行場は占領されました。

注目は陸軍ではなく海軍が空挺部隊(落下傘部隊)を編成していたという点で、
当時の日本軍は陸軍と海軍がそれぞれ空挺部隊を保有していました。
海軍は陸戦隊という陸上兵力を持ち、
港湾や飛行場の警備を担当するための兵力だったものが、
大きくなっていきました。
敵の飛行場の奇襲奪取などを目的として、
陸戦隊の中に空挺部隊が編成されます。

はじめ海軍に空挺部隊があることが理解できず、
敵飛行場の占領を目的とするということで、
海軍の飛行場を広げるという意味での陸上兵力なのだろうと
理解したのですが、
陸軍と海軍の連携の悪さを感じます。
陸軍の協力を得て陸軍が占領するというほうが
全体を通してみれば効率がよいように思われるのですが、
陸軍と海軍の対立により、
両者の協力はうまくいかず、
海軍が狙う目標は海軍が担当するということで、
陸上兵力も増えていったものと思われます。

日本軍史上初の空挺作戦がこのメナドとなりました。
その後海軍空挺部隊が空挺作戦を行うことはなく、
空挺部隊は陸上兵力としてその後の戦いを戦っていくことになります。

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軍人勅諭を読む

おととい、靖国神社に初詣にいったのですが、
遊就館(靖国神社にある博物館)を見学していた時、
何人かの人が軍人勅諭に注目していてじっくり読んでいたので、
軍人勅諭を紹介したいと思います。

軍人勅諭の全文はこちらのサイトが分かりやすいと思います。
http://www.tanken.com/gunjincyokuyu.html

全文を見ると、実は非常にながい文章であることが分かります。
天皇と軍隊の関係について、神話の時代から明治の時代まで描かれていて、
幕府の時代や外国船が現れたことなど、今までの歴史が語られています。
そのうえで、5ヶ条の軍人が守るべき訓告が示されます。
忠節、礼儀、武勇、信義、質素
と5つの要素が示されますが、
「質素」については、
確かに軍人は質素であることが大事だろうなあと思います。
太平洋戦争時代、特に将官たち位の高かった人たちは、
質素な生活を送っていたかというとそうでもなかったわけで、
そういった点にもすでにゆるみが出て
敗戦の遠因にもなっているように思います。

軍人勅諭の朗読を聞きたいと思ったら、
次の動画が分かりやすいのではと思います。
http://youtu.be/roqlgsx6mMI

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ガダルカナル島撤退の決断

1942年12月31日、御前会議が開かれ、
ガダルカナル島からの撤退が正式決定されました。

太平洋戦争緒戦で大勝利を収め、
東南アジアおよび東太平洋一帯を制圧下に置いた日本は、
アメリカ軍の最大拠点となっているオーストラリアについて、
アメリカ本土とオーストラリアの連絡を遮断することを計画、
その前進基地として、ソロモン諸島にあるガダルカナル島に飛行場を建設しました。
これを対日反攻の最初の機会ととらえたアメリカ軍は、
1942年8月7日、
ガダルカナル島に海兵隊を上陸させ、日本軍が建設中の飛行場を奪取、占領します。
ここに、日本軍とアメリカ軍のガダルカナル島をめぐる戦いがはじまります。

戦いはたくさんの海戦を引き起こし、陸においても数度の総攻撃が行われましたが、
日本軍はアメリカ軍の前に勝つことができず、
食糧等の補給を送り込むことができずに日本兵は飢えはじめ、
「餓島」といわれるようになります。
そしてアメリカ軍上陸から5か月が経過した12月31日、
太平洋戦争が始まって満1年。
ガダルカナル島からの撤退が御前会議において正式決定されました。


ガダルカナル島の撤退はおおみそかという年の瀬に出された決断でした。
失敗に見切りをつけ、新しい年を新しい気持ちで迎えたかったという心理の現れなのでしょうか。
ガダルカナル島をめぐる戦いは日米の攻防の焦点となり、
重要ポイントになったにもかかわらず、
太平洋戦争満1年の段階で撤退の決断に追い込まれたのは
早いように思われます。
日米の力の大きな違いを感じさせられます。

日本は国内に対して「撤退した」と発表することができずに、
「転進」と発表しました。
その後、日本は徐々に徐々にアメリカ軍に攻め込まれ、
敗戦へと向かっていきます。

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玉音放送を聴く

終戦記念日はまだまだ先ですが、
YouTubeで1945年8月15日正午に放送された昭和天皇のラジオ放送
「玉音(ぎょくおん)放送」
を聴くことができ、
実際の玉音放送を、始めから終りまで初めて全部聞いたときの話をしたいと思います。

とても印象深く感じるのは、
「五内為に裂く(ごないためにさく)」
と昭和天皇が語っているところで、
『戦場で死んだ兵士たちや職場で死んだ人たち、その遺族のことを思うと
悲しみで体が裂ける思いである。』
という旨の意味のところなのですが、
全体的に無表情で無抑揚に読まれている玉音放送について、
ここだけ声に強く感情がこもって現れていて、
昭和天皇自身が本当に「五内為に裂く」(五臓六腑が裂けてはちきれそうなくらいに悲しくつらいという意味でしょうか)
という思いだったのだろうと想像します。

戦前、昭和天皇自身の声をラジオ放送することは一度もなかったそうで、
なぜかというと、
ラジオの前で人々がどのような場面や姿勢でいるかわからないから、
礼儀を失することがないようにラジオ放送しなかったということです。

昭和天皇自身の肉声を国民はこの玉音放送で初めて聞いたことになります。
初めて聞く天皇の声が太平洋戦争敗戦を告げる言葉だったというのは
とても哀しく思います。

玉音放送はYouTubeでアップされていますが、
こちらの動画は現代語訳も付いていてわかりやすいと思います。
http://youtu.be/LSD9sOMkfOo

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「戦陣訓」の示達

1941年1月8日、当時の東条英機陸相により
「戦陣訓」
が示達されました。

戦陣訓というと
「生きて虜囚の辱めを受けず」
がとても有名ですが、
実はそれは戦陣訓のほんの一部分で、
戦陣訓全文は非常に長文で、
軍隊における兵士の規律について
述べられています。

示達されたのは1941年の正月明けですから、
ちょうど太平洋戦争開戦の1年前ということになります。
当時、日中戦争は盧溝橋事件のはじまりから、
3年半が経過し泥沼となり、
兵士たちの軍律がゆるみがちになっていて、
彼らを律するために作られたといわれています。
すでに軍人勅諭があるわけですが、
それで足りず、
さらに戦陣訓が追加されました。

戦陣訓を読んで思うのは非常に長文であるということで、
当時の兵士たちはこれを全部把握して実行できたかというと
疑問符が付きます。実際、実行できてはいなかったのが現実でしょう。
原文も箇条書きではありますが、
もっと内容を絞ってせめて10か条以内にまとめることができたらと思います。
いろいろ盛りだくさんな欲張った訓令になってしまったために、
「生きて虜囚の辱めを受けず」の部分だけがクローズアップされて、
他の部分は忘れ去られてしまったのかもしれません。

戦陣訓の全文はこちらのサイトで見ることができます。
http://www.tanken.com/senjinkun.html
このサイトでは、戦陣訓の全文だけでなく、軍人勅諭の全文も確認することができます。

戦陣訓を東条英機本人が朗読したという音声も残っており、
YouTubeのこちらの動画で聞くことができます。
パート1
http://youtu.be/oXhgzUMZ0Mw
パート2
http://youtu.be/SIk9DAMgKR8

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戦艦大和竣工

1941年12月16日、呉の造船所で、戦艦「大和」が竣工しました。
太平洋戦争が始まってまもなく、戦艦大和は完成しました。
世界最大級の戦艦とは言われながらも、
戦う機会なく、1944年10月のレイテ湾沖海戦まで一度も戦うことはありませんでした。
レイテ沖海戦では護衛空母を沈めるなどの戦果はありましたが、
やはりそこから戦機が訪れることはなく、
1945年の沖縄の戦いで水上特攻として沈みます。

同型艦の武蔵は完成してから敵艦に対して主砲を一発も撃つことなく、
レイテ沖海戦で沈んでいます。
巨額の費用をかけて大和と武蔵の超大型戦艦二隻を建造したわけですが、
有効に活用されたとはまったく言い難い歴史となってしまいました。

日露戦争の日本海海戦の勝利以来、
日本海軍は「艦隊決戦」に主眼を置いていました。
敵味方双方の主力がまさに日本海海戦のように激突し、
そこで猛訓練を重ねた自軍が勝利を得るという図式です。
太平洋戦争でも、日本海軍はひたすらにその艦隊決戦が起こるのを待っていました。
しかしついに艦隊決戦の機会は訪れることなく、自ら作り出すこともできず、
巨艦二隻は太平洋に沈むことになります。

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南京占領

1937年12月13日、日本軍は南京を占領しました。
南京大虐殺といわれる事件が起こったときです。

1937年7月7日に起こった盧溝橋事件を機に、
日本と中国は戦争に突入します。(日中戦争)
北京郊外の盧溝橋で起こった小競り合いは、
翌月の8月13日には上海に飛び火、
上海でも日中が武力衝突し、全面戦争に発展していきます。
当時の中国の首都は南京にあり、
南京を占領して最終的な勝利をしようと思った軍部は、
上海から軍隊を南京に向けて進軍させます。
そして12月13日、南京を占領します。

中国(当時は中華民国)の蒋介石は、南京から中国奥地の重慶に移し、
戦争を継続します。
日本軍は重慶を空から爆撃し、攻撃を継続しますが、
中国はアメリカやイギリスからの援助を受け、負けずに戦争を続けます。
首都である南京を占領すれば中国側は屈服するという見通しは甘かったわけです。

1937年12月の南京占領後、4年かけても中国を負かすことはできず、
そのままに1941年12月、太平洋戦争の開戦を迎えることとなります。
中国と対決したまま、中国だけでなく、米英蘭と大国に挑むことになります。

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太平洋戦争開戦

今日は、太平洋戦争の開戦日です。
73年前の今日、太平洋戦争が開始されました。

日本海軍は空母6隻を率いてアメリカハワイの真珠湾を攻撃、
同時に台湾の海軍航空隊はフィリピンのクラークフィールド空軍基地など各地の飛行場を攻撃、
さらに日本陸軍はマレー半島への上陸作戦を開始します。
東南アジアと真珠湾と二正面において巨大な作戦が遂行されました。
一日でよくそれだけの大作戦を実行したなと思います。
ものすごく手広く作戦を展開している時点で、
無理をしているというか、
何か敗戦の予感を感じさせるような気もします。

開戦当初は日本の準備がとてもよく整っていたので、
作戦は成功し、戦線は拡大することができましたが、
翌年6月のミッドウェイ海戦の敗戦以来、
日本はずるずると消耗戦に引き込まれていきます。
1942年の12月、ちょうど太平洋戦争満一年というとき、
日本はガダルカナル島で手痛い敗北を喫していて、
飢餓で「餓島」と言われ、
完全撤退を決断する手前の時期でした。
たった一年でもうそんな状況になっていたのが太平洋戦争の現実でした。

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片手間のアメリカに負けた日本

太平洋戦争で皮肉に思うのは、
片手間のアメリカに日本が負けたということ。

真珠湾攻撃により「リメンバー・パールハーバー」という標語で始まったアメリカの戦争だが、
その後のイギリスとの会談で、まずヨーロッパ戦線の戦いを第一とすると決められた。
アメリカは太平洋方面とヨーロッパ方面との二正面作戦となり、
さらに太平洋(対日本)の戦いよりもヨーロッパ(対ドイツやイタリア)との戦いを優先させたのである。
そのようなアメリカに負けたというのは、とても皮肉に思うのである。

日本もまた中国と泥沼の戦いをしており、
ソ連という北方からの脅威にも対抗するべく、
中国大陸および満州に大きな兵力を裂かれており、
中国と太平洋という二正面作戦であったことは確かだったが、
それでも日本は全力でアメリカと戦っていた。
けれども、アメリカはヨーロッパを主として、太平洋を従としていた。
従としながらも、数多くの作戦をアメリカは繰り出してきた。

1942年11月、ガダルカナル島で日本軍とアメリカ軍が戦いを繰り広げている裏で、
アメリカ・イギリスの連合軍は北アフリカに本格的な上陸作戦を行っていた。
1944年6月、アメリカ・イギリス連合軍はノルマンディー上陸作戦を実行するが、
同時にアメリカはサイパン島上陸作戦も実行する。
サイパンは1か月ほどで陥落し、
東条英機内閣は総辞職する。

アメリカと日本の国力の違いを改めて思い知らされる。

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プロフィール

やっち

Author:やっち
ホームページ:
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