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ヒトラーの死

1945年4月30日、ヒトラーが死にました。
4月22日から始まっていたベルリン攻防戦は熾烈さを増し、
ドイツ軍は追い詰められていきました。
ついに生きる道がなくなったヒトラーは
自殺することになります。

1944年7月20日に起こったヒトラー暗殺は未遂に終わり、
それ以降、ヒトラーが命の危機にさらされることはなく、
ベルリンが陥落寸前となる1945年4月まで生き延びることになります。
ヒトラーに反する人たちは大勢いましたが、
皆ヒトラー側の人間に捕えられ、
ヒトラーを倒すには至らず、
ベルリンの陥落を迎えることになります。

悲しみが多数生まれた事実を考えたとき、
自分たちの社会からヒトラーのような人物を生み出さないようにするには
どうしたらいいのかということを真剣に考えます。
映像もモノクロではるか昔の出来事のように感じますが、
たった70年前の出来事でしかないのも確かです。
現在でもヒトラーを支持する思想は少なくないですが、
過去の悲しみを繰り返さないようにするにはどうしたらよいのか、
真剣に考え続ける必要があると思います。
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テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

太平洋戦争の研究分野

太平洋戦争の何を研究していますか?
と多くの人に問われます。
自分だけで考えていると意識的にならず、
突然問われるとドキドキしてしまうのですが、
改めて自分が研究しているものとは何なのだろうと考えました。

自分が一番興味があるのは、
当時の人たちの考え方や気持ちだろうと思います。
太平洋戦争で何を研究していますかと問われれば、
当時の人たちの考え方や気持ちを研究し続けているのだろうと思います。
なぜ当時の人はあのような戦争に向かっていったのか
なぜ当時の人はあのような戦争を早期に終わらせることができなかったのか
当時の兵士たちあるいは庶民たちは何を感じ、何を考えて生きていたのか
極限状態におちいった人たちはどんなことを思い、どのように生きようとしたのか
そういったことを今までずっと研究し続けてきたと思います。

なぜそういったことを研究するのかという問いについては、
生きるヒントが得られるからということだろうと思います。
戦争では人間の本質が如実に現れると思います。
そういったことを知り、そういったところから
生きていくにはどうしたらよいかを学んできたように思います。
もちろん、あのような戦争に二度と突入しないためにどうしたらよいかも
重要な学ぶ理由です。
日本があのような戦争に再び突入しないようにということも当然大切ですが、
それは大きな比喩でもあるだろうと思います。
生きていく中で、太平洋戦争に突入するかのような
重大な失敗をおかさないようにするにはどうしたらよいか、
太平洋戦争のような泥沼の失敗に突入したとき、
どうやったらそれを終わらせることができるのか、
太平洋戦争を教訓として学べるように感じています。

私たちが普段生きている中でも、
極限の状況に置かれることはあると思いますが、
そんなときにどう生きたらいいのか
どう乗り越えていったらいいのか
戦争という事例から学んできたように思いますし、
学べるのではないかと思います。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

ムッソリーニ死す

1945年4月28日、ムッソリーニが処刑されました。
すでに1943年9月8日にイタリアは降伏していましたが、
イタリアの第二次世界大戦はムッソリーニの処刑によって
区切りがつきます。

1941年にイタリアは第二次世界大戦に参戦しますが、
戦況悪化によって独裁者ムッソリーニの威信は失墜し、
1943年7月25日にイタリア国王に解任を告げられ、そのまま逮捕されます。
そして9月8日、後を継いだバドリオ政権は連合国側に降伏します。
イタリア側によって幽閉されていたムッソリーニは
ドイツ軍によって救出されました。
すでにイタリアの北半分はドイツに占領され、
そこにムッソリーニを首班とするイタリア社会共和国が建国されましたが、
ドイツの傀儡政権であり、
ムッソリーニに過日の勢いはもうありませんでした。
そしてイタリアのパルチザンに捕えられ、
処刑されることになります。
その死体はミラノの広場に吊るされました。

ドイツ、イタリア、日本の枢軸国の中で、
まずはイタリアが狙われ、
米英連合軍に占領されたイタリアですが、
早いうちに米英に占領されたことは、
戦争が早期に終わったということで、
イタリア国民にとってはよかったと思われます。
ソ連が介入せず、完全に米英側に占領されたことで、
国土が分割されることはなく、
戦後も一体としてイタリアは再出発することになります。

ムッソリーニが吊るされてさらされたことは、
今まで独裁者側がやってきたことをそのまま受けたわけで、
独裁者の最後とはそのようなものだろうかと思います。
ムッソリーニの死によってイタリアの戦争は決着がついたものと思います。

このあと、ヒトラーも死を迎えることになります。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

「最後の同期会 沖縄戦・“ひめゆり”たちの70年」を見て

4月2日に放送されたNHKのクローズアップ現代
「最後の同期会 沖縄戦・“ひめゆり”たちの70年」を見ました。
ひめゆりの生存者の方の生の声を聞き、思いをめぐらせました。

最近は戦争のことが伝えにくくなってきているということで、
時代の変化を思いました。
ひめゆりの塔の資料館を訪れた人の声にも
「反戦教育はやめた方がよい」
といった感想文が見られて、
戦争を知らない人が増えてきているという危機感が伝わってきました。

友達が傷を負うのを見たり、
そんな友達を置いて逃げなければならなかったり、
ひめゆりの女性たちは大きな心の傷を負うことになりました。
そういった場面に遭遇しなければならないという辛さ。
そういった辛さを分かち合うことができたらと思うのです。

ひめゆりの塔の悲劇はこれからも伝えていかなければならないと思います。
「攻め込まれたらどうしよう」
ということを考える時も、戦争の悲劇を理解して踏まえた上で考えると、
より深い議論が生まれるように思います。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

昭和館を見学

昭和館

先日のブログでしょうけい館を訪れたことを書きましたが、
昭和館はしょうけい館のすぐ近くにあり、
しょうけい館を出てから昭和館にも見学に行きました。
昭和館は戦中戦後のくらしを再現し、今に伝えるという資料館です。
特に戦争に関する庶民の苦労を伝えることがテーマになっています。
久々にまた昭和館を訪れました。
雰囲気は以前と変わってはいなかったです。

常設展示では庶民のくらしに関する展示をじっくり見ました。
特にどんなものを食べていたか、食事の模型に注目しました。
戦前の食事としてコロッケが展示されていて、
日本に洋食の文化が入ってきていたことを感じました。
戦中は支給された玄米を棒でついて白米にして食べたということで、
棒でつく作業は気の遠くなる作業だったそうで、
当時の苦労を思いました。
今でこそ、白米に精米するのは精米機ですぐにできちゃいますけど、
戦時中は米を一升瓶に入れて、ひたすら棒でつくという方法しかなかったのです。
それは主に子どもの仕事だったそうで、
戦時中の生活に子どもも小さいながらも労働力として組み込まれていたのでした。

戦時中を中心とした庶民の苦しい時代を知ることができる資料館です。
大変参考になり、感動して昭和館を後にしたのでした。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

米ソ両軍がエルベ川で出会う

1945年4月25日、ドイツ東部のエルベ川河畔のトルガウで
アメリカ軍とソ連軍が出会い、
米ソの両軍の戦線がつながりました。
ドイツを西から攻めていたアメリカ軍と
東から攻めていたソ連軍がついにつながったのです。

このとき、ベルリンでは激しい戦いが繰り広げられていました。
米ソ両軍がつながっても、戦争は終わらず、
もうしばらく戦争は継続されることになります。

しかし、第二次世界大戦は米ソの協力でもあると同時に、
米ソの対立のはじまりでもありました。
このとき、米ソ両軍は友好的に握手をしたわけですが、
そのすぐ後に、
米ソは対立をはじめ、
ドイツを東西に分割して、
にらみ合いを始めることになります。

戦争がもっと早く終わっていれば、という思いは
ドイツ人も味わっている感情だと思います。
米ソがドイツ本土に侵入する前に戦争が終わっていれば、
あるいはドイツは東西に分割されなかったかもしれません。
しかし、無条件降伏を突き付けられ、
逃げ場がなかったドイツの最高首脳たちは、
あくまで戦い続けるしかなかったのだろうと思われます。

この5日後、30日にヒトラーは自殺、
2週間後の5月8日、ドイツは降伏します。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

しょうけい館-戦傷病者史料館-を見学

しょうけい館

昨日のブログで紹介したコシチェルニャック展の後、九段下に行き、しょうけい館を見学しました。
しょうけい館は傷痍軍人をテーマとした資料館で、
戦争で傷を負い病気になった人たちの労苦を今に伝える場所となっています。
私は最近、労災や年金を勉強しており、
そんな勉強の中で、傷痍軍人のことを思い出し、
再びしょうけい館を訪ねてみたいとずっと思っていました。
22日に東京に出た折、しょうけい館まで足を伸ばしてみることにしました。

体内から摘出された弾や砲弾の破片などが展示されています。
生きている間は弾の摘出をすることができず、
最終的に摘出されたのは亡くなって火葬された後というものも見られ、
体内に鉄の弾がずっと入っている状況では、
何をするにも痛くて大変だっただろうと想像します。

戦争中は傷痍軍人を大事にしましょうと声掛けがされ、
名誉の負傷と言われることがあっても、
戦争が終わると熱も冷め、
傷痍軍人たちの生活は大変なものでした。
戦争で傷を負った人が安心して生きていけるように
年金制度などを整えることが大事だと思います。

義手や義足なども展示されていました。
不便な生活を想像します。
傷痍軍人たちの人生というのは、
戦争に関する記録の中でもあまり触れられることが少ないように思われますが、
傷を負い病に冒された人たちの人生をもっと伝えるべきだと思います。
そういった中から、戦争の影を知り、
戦争とはやっぱり嫌なものだよねということを
感じることができるのではないでしょうか。

入場は無料です。大変参考になる資料館です。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

コシチェルニャック展を観てきました

コシチェルニャック展

昨日、早稲田大学で行われている
「真実を伝え続ける絵画 アウシュビッツに生きたM・コシチェルニャック展」
を観てきました。
先日、埼玉新聞の記事でこの展示会を知り、
開催期限は今日までということで、昨日、急いで観てきたところでした。

コシチェルニャックという人はポーランド人の画家で、
アウシュビッツ強制収容所を生き残った人です。
その人が書いた絵画を野村路子さんという早稲田大学出身の作家の方が保存していたのですが、
このたび、ポーランドに寄贈される(帰っていく)ことになり、
日本を離れる前に若い人に見てほしいということで、
早稲田大学で展示会が行われた次第です。

絵画はアウシュビッツの光景を描いたもので、哀しいシーンも数多くありました。
私が印象的だったのは、描かれるとらわれた人たちのまなざしに、
人間の尊厳というかあたたかなものが感じられたことで、
描いたコシチェルニャックという画家の意志の強さ・大きさを感じたように思いました。

アウシュビッツの中にいたころ、コシチェルニャックは多くの人物画を書いたのですが、
その絵は地下組織を通して外部に伝わり、
アウシュビッツの中でコシチェルニャックや仲間たちが生きていることを
伝えたということでした。
絵画を見て、その人物が生きていることを知った人たちは
どれだけ安堵しただろうかと
当時の人たちの心情を想像しました。

コシチェルニャックの絵は時代を超えて国境を越えて
私たちに人間として大切なものを訴えかけているように思います。
大変興味深い展示会でした。
このようなテーマの展示会が行われたら、
また観に行きたいと思います。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

ベルリン攻防戦のはじまり

1945年4月22日、ソ連軍がベルリンに突入、
ベルリン攻防戦が始まりました。
ヨーロッパ戦線は太平洋戦線より一足先に戦いが進んでおり、
ついに首都ベルリンにソ連軍がなだれ込むという状況になっていました。

このときになってもヒトラーは戦争継続を諦めず、
ベルリンが廃墟と化していく中、ドイツ軍は戦い続けました。

このとき、日本では沖縄を舞台に熾烈な戦いが行われていました。
戦争は最後の局面であり、
ドイツ、日本ともに、もう降伏しても十分な頃合いであったと思いますが、
戦いは続きました。

無条件降伏を突きつけられたことは、
枢軸国側の責任者たちの命の保証もされないということで、
降伏を決断できなかった理由になったのではと思います。
無条件降伏ではなく、一定の条件を認めるような姿勢を連合国側がとっていれば、
あるいは戦争終結はもっと早かったかもしれません。

しかし、連合国には連合国の戦略があり、
無条件降伏を求めて完膚なきまでに枢軸国を抑え込もうという姿勢でした。
このような姿勢では戦争はなかなか終わらないと思います。

このあと、4月30日にはヒトラーがベルリンの地下壕で自殺、
5月8日にドイツは無条件降伏し、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は終わります。

テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

山本五十六がもし直率していたら

真珠湾攻撃とミッドウェー海戦は
太平洋戦争で非常に重要なポイントとなる海戦です。
真珠湾攻撃では、第三次攻撃をなぜしなかったか、石油タンクや工廠施設をなぜ破壊しなかったか、
ミッドウェー海戦では、なぜ陸用爆弾で空母攻撃に向かわなかったのか、
といった点が毎度問われることとなっています。

私が思うのは、どちらの作戦も
連合艦隊司令長官山本五十六の考えによる大変重要な作戦で、
もしこの作戦が認められなかったら連合艦隊司令長官の職を辞するとまで
山本五十六は言い切っていたわけですが、
もしそこまで言い切るならば、
山本本人が機動部隊を直率して
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦を行えばよかったじゃないかと思うのです。
連合艦隊司令部を戦艦大和から空母赤城に移し、
日露戦争以来長く構想してきた艦隊決戦の一環として、
戦いを挑んでもよかったのではないかと思うのです。

なんでもかんでも最高指揮官が直接指揮すればよいというわけにはいかず、
現場指揮官に任せなければならないのも組織でしょう。
また、当時の思想での主力はあくまで戦艦であり、
連合艦隊司令部としての設備も、たとえば無線などの通信設備も戦艦の方が整っており、
アンテナの高さも低くて通信設備が弱かった空母では
連合艦隊司令部に不向きであるという意見もあるかもしれません。
けれども、山本五十六は航空機が主力になると理解しており、
真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も空母による戦いが大変重要になると理解していたわけで、
一時的にでも連合艦隊司令部を赤城に移し、山本五十六が直接空母部隊を率いて
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦に向き合っていたら、
海戦の結果は変わっていたのではないかとも思うのです。

機動部隊の司令長官は南雲忠一でしたが、
なぜ水雷出身の南雲を指揮官にしたのか、
たとえば航空に理解の深かった山口多聞が指揮官だったら、
といろいろな考え方が出ていますが、
私がおもうのは、真珠湾攻撃にせよミッドウェー海戦にせよ、
日本の運命を決する非常に重大な海戦となることは一目瞭然であったわけで、
「艦隊決戦」の一つとして、
連合艦隊司令部を赤城に置いて、最高指揮官である山本五十六自らが行って
海戦を山本自身が思うように指揮すればもっと違う結果になったのではないかと思うし、
それが本来の姿ではないかとも思うのです。

山本は1943年3月の「い号作戦」においては
ラバウルに進出し、作戦を直接指揮しています。
そして前線部隊を激励するため、前線に進出して、
アメリカ戦闘機隊の待ち伏せに遭い戦死しますが、
もし前に出るのだったら、このような時ではなく、
真珠湾攻撃やミッドウェー海戦のときに前に出ているべきだったと思います。
そして日本海軍艦隊の最高提督として、思う存分戦うべきだったと思うのです。

山本五十六は1943年4月にブーゲンビル島上空で戦死し、
真珠湾攻撃およびミッドウェー海戦で空母部隊を指揮した南雲忠一は、
1944年7月、サイパン島にて自決します。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

戦時中の市民の食事を調べる

戦時中の日本の市民たちがどのようなものを食べていたのかということについて、
あれこれと調べています。
できればレシピなども分かればと思い、インターネットでいろいろ検索しました。
そんな中、千葉県松戸市で、
毎年、「戦時中の食事体験講座」というものを行っていることを知りました。
大根飯やすいとんなど、戦時中の食事をみんなで作り、
食べることで戦争と平和について考えるという
非常に興味深いイベントをしかも毎年開催されていらっしゃるということです。
平成26年度戦時中の食事体験講座 千葉県松戸市公式ホームページ

こちらのページを詳しく見ていくと、
戦時中の食事として、大根飯とすいとん、卯の花のレシピを解説されていました。
大根飯やすいとんとは言葉では聞きますが、どうやって作るのかそのレシピは分からず、
とても貴重な資料ではと思います。
戦時中の食事レシピ 千葉県松戸市公式ホームページ

さらにYouTubeの動画で何かないだろうかと探すと、
戦時下の食事、すいとんとご飯を再現して料理する動画を作っていらっしゃる方を拝見しました。
*[aomori][料理]隔週あおもり・戦時下の食事

戦時中の食事でもっとも代表的な食べ物といえば
「すいとん」になるかと思います。
現代でもすいとんは食べられていて、
今のすいとんは肉を入れたり、野菜をたくさん入れたり、
味付けもうまく合わせて調理されておいしいものになっていますが、
当時はだしをとるにも昆布や煮干しもなく、
だしも調味料も不足しているという状況で、
海水で煮て味付けしたという話もあったそうで、
当時の苦労をしのびました。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

依頼者様にお会いしました

先日、高校の先生から広島の原爆について教えてほしい
という依頼を受けた件をこのブログで書きましたが、
昨日、その依頼者様にお会いしてきました。

とても真剣に生徒のことをおもいやっていて、
情熱があふれる方で脱帽しました。

場所は東京某所の喫茶店にて。
ご質問は当時の広島の日常生活などで、
何を食べていたのか、何を着ていたのか
ものの本では書いていないような
当時の人々の実生活を教えてほしいというご質問をいただき、
とても高度なレベルのご質問で、
精一杯ご回答させていただきました。
わからない部分については保留させていただき、
後日お調べしてご回答するということで、
およそ2時間にわたる面談が終わりました。

今回のご質問をいただき、
私もまたとても勉強になりましたし、成長したと思います。
いろいろなことについて気が付くことができました。
このような機会を与えてくださった依頼者様に感謝いたします。

太平洋戦争や第二次世界大戦で何かわからないことがありましたら、
その解決にご協力します。
当ブログのプロフィール欄に掲載したメールアドレスにご連絡ください。
可能な限りお力になります。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

ドーリットル爆撃と山本五十六の戦死

今日4月18日はドーリットル爆撃の日であり、山本五十六が戦死した日でもあります。
1942年4月18日、ドーリットル爆撃が行われ、
ちょうど1年後の1943年4月18日、山本五十六は戦死しました。

開戦してから5か月、アメリカは日本本土初空襲に成功します。ドーリットル爆撃です。
B-25爆撃機16機による爆撃の被害は僅少ではありましたが、
日本に与えた心理的影響は大変に大きく、
日本をぎゃふんと言わせようとしたアメリカの作戦は大成功することになります。
この空襲により、日本海軍は日本本土防衛の甘さを思い知らされ、
山本五十六はミッドウェー攻略を推し進めることになります。
ミッドウェーを占領することにより、防衛線を押し上げ、
再度の日本本土空襲を阻止するという戦略です。

しかし、ミッドウェー海戦は山本五十六が心を砕いた作戦ではありましたが、
空母4隻を失うという大敗を喫し、以後、日本軍は劣勢に立たされることになります。
そしてガダルカナル島の大消耗戦に引き込まれ、
数多くの兵士と兵器を消耗し、日本軍は撤退していくことになります。

そんな日本軍の劣勢を挽回するため、
ラバウルを中心としてアメリカの根拠地を航空攻撃するという「い号作戦」が計画され、
この作戦を指揮するため、山本五十六はラバウルに進出します。
そして前線将兵を見舞うためさらに前線であるブイン、バラレに行こうとし、
アメリカ軍戦闘機の待ち伏せに遭い、戦死することとなります。

太平洋戦争は山本五十六の影響が大変大きいところで、
戦争前半は山本の戦略によって動いていきました。
真珠湾攻撃もミッドウェー海戦も山本の発案ではありましたが、
あと一歩のところで及ばず、ミッドウェーでは敗北することになりました。
そして山本五十六が戦死したことは、
日本海軍にとって致命的な打撃のひとつであり、
以後、日本は敗戦へとひた走っていくことになります。

そんな日本の重要なポイントとなったドーリットル爆撃と山本五十六戦死が
同じ日であったというのは運命を感じます。
今日の関東は快晴で、春うららかというとても良い日となっています。
そんな春うららかな日、日本本土が突如空襲され、
その翌年には山本が戦死することになります。

山本の死後、2年経って、沖縄上陸が行われ、大和が水上特攻し、
山本が司令長官を務めていた連合艦隊は壊滅します。

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山本五十六の戦死

1943年4月18日、山本五十六が戦死しました。
明日が山本五十六の命日ということになります。
4月、桜の散り行く季節、山本五十六もまた南溟の空に散りました。

山本はい号作戦の指揮のため、連合艦隊旗艦であった武蔵を離れて、
ラバウルに来ました。
そして、前線将兵の労をねぎらうためということで、
ラバウルからさらに前線のブイン、バラレを訪問することになりました。
山本の行動は詳細に無線で連絡され、
その無線の暗号を解読したアメリカ軍は、
山本が前線に出てくるということをつかみました。
そして山本を暗殺するため、戦闘機隊を派遣します。
暗号の予定通りに来た山本の乗機をアメリカ軍戦闘機隊は撃墜、
山本は戦死しました。

日本軍は山本が暗殺されるということをまったく考えていなかったと思われます。
詳細な行動予定を無線で知らせ、
山本が乗った飛行機が飛んでいる様子を
一般の兵士たちも「あそこに山本五十六が乗っている」と
指さしたといいます。
前線部隊を訪問して士気を高めようとしたことは認めるにしても、
最高指揮官が敵に襲われて戦死する可能性を考え、
隠密に行動する慎重さが必要だったと思います。
ドイツの将軍ロンメルもまた前線に現れて部下たちを励まし士気を鼓舞したと言いますが、
ロンメルは詳細な行動予定を連絡することはなく、ロンメルの判断で行動していました。
山本独自の判断で、当日に行動を決定して前線に出るような
そのような突飛なくらいが安全だったと思いますが、
自分たちの暗号が解読されて待ち伏せされているとも知らず、
詳細な行動の予定通り前線に出撃し、撃墜されます。

アメリカ軍太平洋艦隊司令長官のニミッツは、
山本を暗殺することでさらに優秀な指揮官が現れることを恐れましたが、
日本にそのような人材はいないという進言を受けて、
山本暗殺を決意します。
実際、山本に取って代わる指揮官は日本に現れることはなく、
そのまま日本は敗戦に向けた坂を転がり落ちていくことになります。

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原爆の攻撃目標

アメリカは「マンハッタン計画」の暗号名で原爆開発を進めていましたが、
1945年7月16日についに世界初の核実験に成功し、
アメリカはさっそく日本への原爆使用に向けて動き出します。

原爆の攻撃目標については、すでに以下の4都市に絞られていました。
①小倉
②広島
③新潟
④京都

ここで京都について、スチムソン陸軍長官が反対しました。
スチムソンが反対した理由は、
京都が歴史的に由緒ある都市で、日本人の心の故郷である、ということでした。
スチムソンはフィリピン総督時代に京都を訪れたことがあり、その古代文化に
ひどく心を打たれたことがあったと言われています。

そんなスチムソンの強い反対があって京都は退けられ、
代わりに『長崎』が選定されました。

8月6日、B-29の気象偵察機は広島、小倉、長崎を偵察し、
広島が晴れていて攻撃目標にふさわしいことを確認し、
一番最初の攻撃目標は『広島』となりました。

京都はスチムソンの判断により攻撃目標から外されましたが、
日本を旅行した経験があり、日本文化を理解していたことにより、このような判断がなされたということで、
他国の文化を理解することは大事なことだと思います。
そういった相手の文化や歴史を理解することが、戦争回避にもつながるものと思いますが、
巨大なうねりの中で、何もできずに飲み込まれていく戦争の渦の強さを感じます。

広島には広島の歴史が、長崎には長崎の歴史があるわけですが、
無情にも原爆は投下され、終戦の聖断につながります。

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日ソ中立条約

1941年4月13日、モスクワで日ソ中立条約が調印されました。
太平洋戦争が開始される8か月前のことです。
今までソ連を攻撃する北進論という考え方が陸軍の中でありましたが、
ソ連と中立条約を結ぶことで、
南進論(東南アジア方面に進出する)にシフトしていくことになります。

日ソ中立条約については、このブログの2月16日付けの記事でも書いていますが、
太平洋戦争に突入し、同盟国のドイツはアメリカに参戦し、ソ連と戦っているのに、
日本はソ連と中立関係を維持するということで、
外交関係とはいい加減なものだと思います。
さらにドイツがソ連に侵攻した時、
中立条約がありながら、
日本はソ連国境に兵力を集めて演習を行ったり(侵攻するかもしれない圧力がかかっているわけです)、
国際信義は事実上なかった時代だったことをあらためて感じます。

桜舞い散る季節の4月中旬、そんな日ソ中立条約は締結されました。
それで北方方面の情勢を整理した日本は、
その年の12月、太平洋戦争を起こし、南へと侵攻していくことになります。

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ドーリットル爆撃

1942年4月18日、ドーリットル爆撃が行われ、
東京をはじめとする日本の都市が初めて爆撃されました。

空母発進をまったく前提としていない陸軍のB-25爆撃機が採用され、
極秘に空母発艦訓練を繰り返し、
準備が進められました。
そして4月18日、空母ホーネットよりドーリットル中佐率いる爆撃隊は出撃し、
日本の諸都市を爆撃しました。

真珠湾攻撃以来、日本軍にいいようにやられていたアメリカは、
何か日本に仕返しはできないかと模索していました。
そんな中で、東京をB-25の空母発艦により奇襲爆撃するという作戦が出されました。
実際の軍事的な被害は小さかったものの、
日本側に与えたショックは極めて大きく、
アメリカの作戦の戦略意図は大成功に終わった作戦でした。

その大胆な発想に驚かされます。
一度空母から発艦すれば戻ることはない作戦で、
中国の領地に不時着して助かるという作戦でしたが、
決死の作戦でした。
陸軍の双発爆撃機が空母から飛び立つという前代未聞の作戦でしたが、
空母発艦は成功し、爆撃も成功に終わりました。
やられっぱなしではないアメリカ軍の底意地のようなものを感じます。
日本の出鼻をくじくという心理効果だけを狙った戦略的な作戦でしたが、
戦略的な作戦が重要なのだとあらためて思います。

このドーリットル爆撃を防衛できなかった日本は、
日本の防衛線を確固たるものにするため、ミッドウェー作戦に乗り出します。
そして、あの手痛い敗戦を味わうことになります。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

傷痍軍人について研究

最近、傷痍軍人について興味を持ち、
昨日は傷痍軍人について調べていました。

画像で検索すると物乞いをしている風景の写真を見ることができます。
戦争で苛酷な戦いを強いられ、重傷を負ってやっと帰ってきて、
救済がなく物乞いをしなければならないというのは、
本当に切ない話だと思います。

戦争中は戦争でけがをして帰ってきたことは名誉の負傷と讃えられたかもしれませんが、
戦争が終わってみると、当時の熱気もすっかりさめてしまって、
傷痍軍人のことは見向きされなくなってしまったかもしれません。
戦争で戦い、犠牲になった人の厚生を手当することは大事なことだと思います。

これからも傷痍軍人について研究を深めていきたいと思います。
戦後もずっと背負った戦争のつらさを
私も感じたいと思います。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

ルーズベルト大統領が死去した日

今日はルーズベルトアメリカ大統領が死去した日です。
1945年4月12日、ルーズベルトは死去しました。
後任として、トルーマン副大統領が大統領になりました。

真珠湾攻撃や開戦時の対応については、
日本をわざと攻撃させるだまし討ちではなかったかとよく言われます。
真相はわかりませんが、
事前に日本軍の動向を察知しておいて、
真珠湾やフィリピン方面に何も連絡せず防衛体制をとらなかったことは
ルーズベルトの手落ちであったと思います。
開戦までの対応は後手後手であったものの、
開戦後の対応については、頭がよく鋭い対応をしてきたと思います。
ドイツと日本という二正面作戦でありながら、
日本方面の戦いにおいては、上手に日本を封じ込めていきましたが、
物量に勝るだけでなく、
戦略面でもすぐれたものがあったと思います。

そんなルーズベルトも病魔には勝てず、
勝利の日を見ることはなく、
今日、脳卒中で死去しました。
第二次世界大戦が終わる目前での死でした。

テーマ : 太平洋戦争
ジャンル : 学問・文化・芸術

大和の沈没

少し過ぎましたが、4月7日は戦艦「大和」が沈没した日です。
4月1日にアメリカ軍の沖縄上陸が開始され、
それから1週間して、大和に沖縄に上陸したアメリカ軍の撃滅が命じられ、
駆逐艦の護衛を連れて全10隻で沖縄に向かい、
鹿児島から離れて沖縄に向かおうとしたところ、
鹿児島県西南の坊ノ岬沖で、アメリカ軍艦載機の攻撃を受け、沈没しました。

水上特攻と言われ、
「沖縄に乗り上げて置き砲台として戦う」
などと決意は語られましたが、
当初の予想通り、熾烈な航空攻撃を受けて、沖縄にたどり着く前に沈みました。

私が初めて製作したプラモデルは大和でした。
もっとも有名な艦船であり、
小学4年生くらいだったと思いますが、
箱絵の大和を見て、美しいと思ったものでした。
それは純然たる兵器ではあったのですが。

量より質と言われますが、
あまりにも高価すぎて出し渋りというか使いどころを見いだせず、
最後の最後まで温存されて沖縄で沈むことになりました。
武蔵とあわせて、使いどころが難しい艦船だったと思います。

テーマ : 太平洋戦争
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ペリリュー島の降伏

すでにニュースで報じられていて、このブログでも書きましたとおり、
昨日、両陛下がペリリュー島を訪れ、太平洋戦争の戦没者を慰霊されました。
テレビのニュースであらためて両陛下の慰霊の旅を拝見しました。

ペリリュー島で生き残った将兵として95歳のとある男性が出演していました。
とても元気で、ペリリュー島の戦いについてはっきりと答えていらっしゃって、
ペリリュー島の戦いはなおも男性の心に明確に焼き付いていて
離れない記憶なのだろうと思いました。
なくなった戦友たちのためにという思いが、元気にさせているのかもしれません。

男性はペリリュー島で生き残った34人の兵士のひとりなのですが、
34人の兵士が降伏したのは、戦争から2年も経過した1947年でした。
戦争が終わってからも2年近く、洞窟に潜伏し、
降伏勧告を受け、降伏しました。
降伏しようとした仲間を別の兵士が射殺したり、
そういった極限状態の中で、
男性は通りかかった米軍車両の前に飛び出して終戦を確認したそうで、
男性の活躍により、34人の兵士たちが生き残ったことにつながりました。
戦争が終わっても終わらない現実。
本当に戦争とは、
はじめることは簡単でも終えることは非常に難しいものだと思います。

ペリリュー島はあまり有名ではない島かもしれませんが、
激しい戦いがありました。そして1万人近い日本の将兵が犠牲になりました。
両陛下が慰霊に訪れられたことは、
大きな意味があっただろうと思います。

テーマ : 太平洋戦争
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天皇皇后両陛下ペリリュー島をご訪問

今日、天皇皇后両陛下がパラオ共和国のペリリュー島を訪れられ、
ペリリュー島で戦い、亡くなった将兵たちを慰霊されました。

ペリリュー島は太平洋戦争でも激戦が行われた島です。
ペリリュー島は日本軍の飛行場があった島で、
この島を含むパラオ諸島は、太平洋の日本海軍最大の根拠地トラック島と並び、
日本海軍の重要な根拠地として動いていた島でした。
1944年10月20日のアメリカ軍フィリピン上陸に先立ち、
前進基地確保と日本軍の反撃阻止のため、
1944年9月15日、アメリカ軍はペリリュー島に上陸を開始しました。

ペリリュー島の激戦は
アメリカのドラマ「パシフィック」でも如実に描かれているところです。
日本軍は洞窟陣地に立てこもり、抵抗をつづけましたが、
1944年11月23日、2か月余りの抵抗の末に玉砕しました。

そんなペリリュー島を天皇皇后両陛下がご訪問されました。
天皇万歳を叫んで多くの将兵が死んでいったわけですが、
その天皇陛下が来てくれたということは、
大きな慰めになったのではないかと思います。

テーマ : 太平洋戦争
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井上ひさし「父と暮せば」

井上ひさしさんが書いた舞台
「父と暮せば」
を紹介します。

主人公は広島の原爆の惨禍を生き残った若い女性。
とある青年から求愛を受けますが、
自分は幸せになってはいけないと
自分を押し殺してしまいます。

なぜ自分だけ生き残ってしまったのだろう
という心理は、
太平洋戦争の体験談でも出てくる話だと思いますし、
太平洋戦争だけでなく、
何か事故や災害などで
普遍的に聞く体験談なのではと思います。
なぜ自分だけ生き残ってしまったのだろう、
死んでいった人たちに申し訳ない、
そういう心理はよく見られることなのではないかと思います。

平成10年に書かれた作品ですが、
広島の原爆の被爆者の心理を
表現しているのではないかと思います。


テーマ : 太平洋戦争
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原爆に遭った少女の話

昨日「原爆に遭った少女の話」という漫画を読みました。
アマゾンで99円だったので安いと思って買って読んだのですが、
ネット上で実は無料公開されてました。
でも、非常に価値の高い漫画でした。

タイトルのとおり、原爆に遭った少女の話で、
祖母の体験談をもとに漫画化されたそうです。
広島の路面電車の学校に通う女学生の物語です。
非常にリアルで、引き込まれました。
とてもおもしろかったです。

作画が現代風なので、
今の若者たちが読むのにちょうどよいと思います。
同じ年頃、10代の若者たちにぜひおすすめします。

作者ご本人のサイト(無料公開されています):
原爆に遭った少女の話

アマゾン:

テーマ : 太平洋戦争
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広島の原爆について研究中

とある学校の先生から、
広島の原爆について教えてほしいというご依頼をいただき、
今、広島の原爆について改めて研究をしています。

授業で広島の原爆をテーマに取り扱うそうで、
生徒に勉強してもらう前に、まず自分が勉強したいということで、
いろいろ教えてほしいということでご依頼をいただきました。

さっそく広島の原爆について自分も勉強を始めました。
今後しばらくは広島が自分のメインテーマになります。

太平洋戦争や第二次世界大戦をテーマに何かわからないことがありましたら、
ご質問やご相談をお受けしています。
左のメールアドレスからお気軽にメールをお送りください。

テーマ : 日記
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史上初の核実験場が一般公開

アメリカ、ニューメキシコ州にある史上初の核実験場
「トリニティ・サイト」が一般公開されました。
日本に落とされた原子爆弾の実験が行われた場所でもあります。
ヤフーニュース記事「一般公開された史上初の核実験場」

太平洋戦争中、アメリカが進めていた核開発。
人類史上一番最初の核爆発はこの「トリニティ・サイト」で行われ、
核爆発は成功しました。
1945年7月16日のことです。
原子爆弾は直ちに兵器として製造され、
8月6日に広島、そして8月9日に長崎に投下されます。

何もない砂漠の荒野で、
人類初の核実験が行われました。
今までの軍事常識からは
まったく想像もできない大爆発。
戦争の必要からとはいえ、
ものすごいものが作られたものだと思います。

ここから核開発ははじまり、
一気に東西冷戦、核戦争の危機へと突き進んでいくことになります。

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空襲のときになぜ事前に避難しなかったか

空襲に襲われたとき、たくさんの市民が家にいて、犠牲になったと聞いたとき、
なぜ事前に避難しなかったかという疑問が湧くと思います。
空襲に見舞われそうな大都市を避けて田舎に疎開し、戦争の難を逃れればよかったではないか
という疑問もあると思います。

市民たちは、事前に避難することを禁止されていました。
防空法という法律で、家を離れて田舎などへ避難することを禁止されていたのです。
家を離れずに家を守れというのがその法律の趣旨で、
みんないなくなってしまったら街の火を消す人がおらず、
街が全部燃えてしまうので、
市民たちは家に残り、おのおのの町内の消火活動にあたることが命令されていたのです。
疎開が認められていたのは子どもたちで、
大人は自分の住む家に残り、家を守ることが義務付けられていました。

結果としてはアメリカ軍の大量の焼夷弾の攻撃の前に、
とても市民の消防作業が間に合うはずもなく、
多くの市民が焼かれ、家が焼かれて焼け野原になったことは、
語るまでもないと思います。

空襲の被害が大きくなったことには、そういった側面もありました。
戦いは前線だけでなく、市民たちも巻き込んで行われていたのでした。

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ノモンハン事件の教訓

今日は「日本軍事史」(吉川弘文館)から、
ノモンハン事件の部分を読んでいました。
満州国とモンゴルとの国境において日本とソ連が戦ったこの戦いで、
日本はソ連の機甲部隊に敗北を喫し、
陸軍は自軍の後進性を痛感したはずなのですが、
その後進性は改められることなく、
太平洋戦争に突入していきました。

太平洋戦争に至るまで、日本は中国と戦争していたわけですが、
日中戦争の中で日本は兵器を近代化する余裕がなく、
ノモンハン戦争の教訓から戦車部隊の現代化を図りたくても
図れなかったという事情もありました。
アメリカとの対立が決定的になったときに、
日本陸軍は中国からの撤兵という条件を受け入れることはできませんでした。
長い日中戦争で膨大な人間と資源を消耗して、
獲得したものを手放し、いまさら最初に戻るということはできなかったのです。

ノモンハン事件で優勢な形で勝利をしたソ連は、東の守りを固めたうえで、
ドイツのポーランド侵攻にあわせて、ドイツとの密約通り、
ポーランド東部に侵攻しました。
政戦略という点では、ソ連の手腕はしたたかだったと思います。

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戦艦陸奥の沈没

戦艦陸奥は長門の同型艦で、
大和と武蔵が登場するまでは、
日本海軍で最新鋭の戦艦でした。
そんな陸奥が太平洋戦争中、瀬戸内海において
突如大爆発を起こして沈没してしまいます。

アメリカ軍の攻撃を受けたわけではなく、
完全な事故による爆発で、
いろいろな説がとりただされました。
最終的に結局何が原因なのかはわからずじまいですが、
乗組員による放火などさまざまな説が憶測されています。

私は吉村昭の小説「陸奥爆沈」で
陸奥の沈没のことを知り、
アメリカ軍の攻撃ではない、
自軍内のミスによって沈没したという事実に衝撃を受けました。
こともあろうに乗組員の放火によって沈没するなんて
そんなことがあっていいのかと
驚いたのです。

戦艦陸奥は戦機にめぐまれず、
太平洋戦争中にアメリカ軍と交戦することはなく、
1943年6月8日、瀬戸内海にて沈没します。

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沖縄上陸の日

今日、4月1日はアメリカ軍沖縄上陸の日です。

硫黄島を占領したアメリカ軍は次の目標を沖縄としました。
沖縄を占領し、九州へと攻め込む予定でした。
4月1日、満を持してアメリカ軍は沖縄本島への上陸を開始しました。
日本軍の組織的抵抗が終了した6月22日までのおよそ3か月間、
沖縄本土では激しい戦いが繰り広げられました。

今日の埼玉は桜が満開で、
新入社員と思われるリクルートスーツ姿の若者を多く見ました。
入社式という看板を見て、ああ、今日は4月1日かと改めて思いました。
70年前の日本でも桜が咲いていたと思いますが、
勝ち目のない戦争はまだまだ続いていました。

新年度に入りましたが、皆さんはどのようにお過ごしですか。
私は改めて太平洋戦争を研究していこうと
4月1日という日に決意を新たにしました。
つたない研究ブログですが、
このブログも変わらずに更新していこうと思います。
新年度もよろしくお願いします。

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やっち

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